グラデーション

グラデーション

 物事はほとんどがグラデーションだ。長短、濃淡、栄枯、清濁などなど挙げればキリがない。基準にしている物差しはほぼ全員が違うのでそれぞれの主観からみた事象への認識は当たり前に変化する。何を口にするかという切り口でもさまざまだ。日本人としての観点から見ると犬を食べる文化というものは耳を疑ってしまう。それでも、韓国では近い将来禁止になるがポシンタンという犬鍋が古くから食べられている。翻って海外から日本を見てみる。そうすると、生卵を食べたりタコやイカの踊り食いなどは気持ち悪がられることがかなり多い。宗教もその御多分に洩れずだ。信仰心や敬虔さも人によって違う。それをひしひしと体感した旅行だった。

 トルコに行った。トルコに住んでいる人のほぼ100%がイスラム教徒だ。日本人はイスラム教と聞くと何かと怖いイメージを持っている人が多いように思う。トルコに行くと周りの人に話すと治安とかテロとか大丈夫なのかと聞かれることがあった。思うに、イスラム教→イスラム国→テロと連想している人が多い気がする。確かに外務省のHPを見てみると危険レベル1で十分注意とある。日本で報道されるような過激思想のイスラム教徒は全体のほんの一握りの人であろうし、仮にみんなテロリストだったらそもそも18億人も信者がいるわけがない。

 イスラム教徒はお酒が飲めないし女性は美しい部分を隠すので髪を見えないようにしないといけない。スンニ派であれば1日5回のお祈りをする。この辺の前提知識を頭の片隅において旅行にいった。現地に着くと髪を覆うためのヒジャブをしてない人やお酒やタバコを嗜んでいるトルコの人が多くいた。探せばお酒が飲める国というのがわかってはいたものの、少し驚いた。街中ではヒジャブをつけた女性が歩いているし、日に5回は礼拝の時間であることを呼びかけるアザーンが鳴り響いている。当然モスクに入ると礼拝をしている人がたくさんいる。一方で、多くのそうでない人たちも同時に見かけた。

 思い返すと日本人にも同じような部分があるのかもしれない。日本人に宗教を聞いても特に何も信仰はしていないが、強いていうなら実家は真言宗とか浄土真宗などと言う人が多いと思う。それでも誰かが亡くなればほぼ一択で仏教の葬式を執り行うのではないだろうか。僕には仏教徒という意識はほぼない。それでも、葬儀で牧師さんがやってきて讃美歌斉唱やオルガン演奏があったりすれば、自分にとってはとても見慣れない光景になる。自分がこの先に関わるそういう機会でもほどんど仏教形式の葬儀だろう。ましてや、イスラム教の土葬を日本で考えることはほとんどない。そんなふうでもクリスマスはその宗教的意味を持たずとも日本全体がお祝い気分になる。そう考えるとトルコ人も日本人も出自の違う文化や価値観を   幾つか持ち合わせているだけであって、辻褄は合わないがそれぞれの人の中で整合性は取れているのだと思う。ひとつひとつを辿って行くと教義にそぐわない部分も必ず出てくる。しかし各人総体の感覚としては違和感はない。宗教活動も信仰心もグラデーションだ。

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